中(ちゅう)する徳
中(ちゅう)というのは、人の世の道徳でいえば、
いわゆる中庸(ちゅうよう)です。
中庸というのは、過ぎることもなく、足りないこともなく、
ちょうど適度なことをさして中庸といいますが、
これは往々にして誤解されやすい言葉です。
適度ということは、たとえば感情についていえば、
喜怒哀楽などの感情をおさえて、
大喜びもせず、憤激の怒りもせず、
深く哀しみもせず、飛び上がるように喜びもせず、
たとえば灰色のような気分、雲空のような気分のことというように、
とても誤解されやすいのですが、決してそうではないのです。
もし、大いに喜ぶべき時があれば、大いに喜ぶのが中(ちゅう)です。
もし大いに怒るべき時があれば、大いに怒るのが中です。
哀しみも楽しみも、皆同じわけです。
むやみに感情をおさえて、なすべきことを控え目にすることを、
中(ちゅう)というのではないのです。
中(ちゅう)とは、「あたる」とも読みます。
放たれた矢が見事に的(まと)に当たることを“的中”といいます。
食べ物の毒にあたることを“中毒”といいます。
恋に燃える男女が、この世で遂げられぬ恋をあの世で添い遂げるため、
無理に一緒に命を落とすことを“心中”と申します。
『易経』では、中(ちゅう)とは、活発に活動し、変化して、
一刻も停止していない状態をさしています。
今日ではこうすることが中であっても、
明日はそれでは中にならないのです。
時々刻々変化して止まない時世を捉え、
その時々に“ピタリ”とあたるのが中(ちゅう)の徳です。
この中の徳を身に修めれば、
何事に対しても“的外れ”ということなく、
生きていくことができるのでしょう。
いわゆる中庸(ちゅうよう)です。
中庸というのは、過ぎることもなく、足りないこともなく、
ちょうど適度なことをさして中庸といいますが、
これは往々にして誤解されやすい言葉です。
適度ということは、たとえば感情についていえば、
喜怒哀楽などの感情をおさえて、
大喜びもせず、憤激の怒りもせず、
深く哀しみもせず、飛び上がるように喜びもせず、
たとえば灰色のような気分、雲空のような気分のことというように、
とても誤解されやすいのですが、決してそうではないのです。
もし、大いに喜ぶべき時があれば、大いに喜ぶのが中(ちゅう)です。
もし大いに怒るべき時があれば、大いに怒るのが中です。
哀しみも楽しみも、皆同じわけです。
むやみに感情をおさえて、なすべきことを控え目にすることを、
中(ちゅう)というのではないのです。
中(ちゅう)とは、「あたる」とも読みます。
放たれた矢が見事に的(まと)に当たることを“的中”といいます。
食べ物の毒にあたることを“中毒”といいます。
恋に燃える男女が、この世で遂げられぬ恋をあの世で添い遂げるため、
無理に一緒に命を落とすことを“心中”と申します。
『易経』では、中(ちゅう)とは、活発に活動し、変化して、
一刻も停止していない状態をさしています。
今日ではこうすることが中であっても、
明日はそれでは中にならないのです。
時々刻々変化して止まない時世を捉え、
その時々に“ピタリ”とあたるのが中(ちゅう)の徳です。
この中の徳を身に修めれば、
何事に対しても“的外れ”ということなく、
生きていくことができるのでしょう。
ジャンル:中山のひとりごと。